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「時間は有限。だから無駄にはできない」
それが、私の口癖だった。
私は”タイパ”、つまり「タイムパフォーマンス」を何より大切にしてきた。

朝は冷凍スムージーを飲みながらスマホでニュース。
昼休みは10分でランチを済ませてメール処理。自炊なんて非効率。食事は外食。
これらの時短で浮いた時間は、”ショート動画”。
そう、結局「余った時間」は、ぼんやりスマホで流れていく。
スクロール、スクロール、スクロール。
情報はたくさん入ってくるのに、何も心に残らない。

ある休日、私は久々に実家に帰った。
母が台所で料理をしていた。
味噌の香り、煮物の音、湯気の向こうに母の背中が見えた。
「手間じゃない?」と聞くと、母は笑った。

「手間だけど、それが良いのよ。時間をかけることで、美味しくなるんだから」
私はその言葉で、ふと昔のことを思い出した。

中学の頃。
部活帰り、真っ暗なキッチンに明かりが灯り、母が台所で私の好きなオムライスを作ってくれた。
疲れていたはずの母は、それでも笑って「今日はケチャップ多めにしたよ」と言ってくれた。
その時の、あたたかさ。
あのとき私は、母の時間を”消費した時間”だなんて、思わなかった。
むしろ、それが“愛された時間”だったんだ。

「時間は有限」
その言葉の裏には、「誰にも迷惑をかけたくない」という思いがあった。
だからこそ、私は全てを自分で管理して、他人との摩擦を避けてきた。
けれど、それは本当に「自由」だったのだろうか。
私はいつの間にか、人と何かを共有する時間すら、”無駄”と感じるようになっていた。
便利さは大切。
ただ、すべてを「効率」で片付けてしまったら、人生はただの“作業”になってしまう。

その週末、私は近所のスーパーで”じゃがいも”と”にんじん”を買った。
ネットレシピを見ながら、味噌汁を作り、じゃがいもを切る、煮る、味見する。
すべてに時間がかかった。

そして一口、味見をしたとき。
なぜか、胸の奥がじんわり熱くなった。
いまいちな味だった。でも確かに「私の時間」が込められていた。
スマホの画面じゃ味わえない、確かな感覚。
それは、「自分と向き合うための時間」だった。

変化はまだ小さい。
でも、私は少しずつ、「無駄」に思える時間を受け入れていくことにした。
料理をする時間。誰かの話を黙って聞く時間。電車でぼーっと空を眺める時間。
そのどれもが、人生を”感じる”ために必要な事だと、気づいた。
そして、私はもう、焦げた味噌汁を「失敗」とは思わない。
私が選んだ”時間”だから。