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朝の駅のホームで、佐野祐介(さの ゆうすけ)はひとり満足げに立っていた。
手ぶらである。文字通り、何も持っていない。
ポケットにはスマホと薄い財布だけ。

かつてはノートパソコン、手帳、書類、弁当箱まで詰め込んだ重いカバンを肩に担いでいた。
だが、ある日ふと思ったのだ。
「本当にこれは、必要なのか?」
心に聞いた結果、答えは「ノー」だった。

そうして、祐介は実行に移した。完全手ぶら出勤。
必要なデータはクラウドに。会議のメモはスマホの音声入力。昼食はコンビニで済ませる。
傘も持たない。雨が降れば、濡れればいい。乾くのだ、人間は。

しかし、会社では異変が起きた。
自信満々でタイムカードを押し、颯爽とオフィスに入った祐介。
だが、次の瞬間、空気がピタリと止まった。
突き刺すような視線が、全方位から飛んできた。
「あの人、何をしてるんだろう」
「仕事がないのかもしれない・・・」
「何しに会社来てるんだ?」
ひそひそ声が背後から聞こえる。

祐介は気づかぬふりで歩くが、確実に空気が重い。
コーヒーを淹れていた後輩が、驚きすぎて紙コップを床に落とした。

それでも、胸を張ってデスクに向かおうとしたそのとき、部長が声をかけてきた。
部長「佐野君・・・何かあったのかい?ちょっと不自然だよ、カバンがないのは。」
祐介は、答えた。
祐介「カバンは必要ないので、持ってきてません。」
呆れた部長は、そのまま黙ってデスクに戻っていった。

夕方、仕事を終え、家に帰ろうとしていた時だった。
横断歩道の赤信号、前を歩く人々の足が止まる中、一匹の小さな猫が道路に飛び出した。

祐介「危ない!」
祐介は迷わず駆け出した。両手は自由だ。重いカバンに動きを妨げられることもない。
彼は猫をさっと抱き上げ、反対側の歩道へ飛び込むように戻った。
数秒後、猛スピードのタクシーが通り過ぎていった。

拍手が起こった。
「なんて俊敏性なんだ!」
「最高の男だな!あいつは!」
「猫、命拾いしたな!」

その場に偶然居合わせた映画監督が、祐介に駆け寄った。
「君の“手ぶらを選んだ行動”が、猫を救った。ぜひ、映画化させてくれ。」
祐介は少し戸惑いながらも、静かにうなずいた。

そして一年後。
映画『手ぶら出勤を選んだ男』は全国公開され、まさかの大ヒット。
祐介は「ミスター手ぶら」としてワイドショーやネットニュースを席巻し、一躍有名人に。

さらに、通勤の常識も変わった。手ぶら出勤がブームになり、電車では本来カバンが占領していた
スペースが空き、人々のストレスが減った。

会社では、祐介を「カバンなし男」と褒め称えた。
「佐野さんって、やっぱすごいっすよね」
「まさか“カバンを持たない”だけでこんな影響力があるなんて・・・」
「社名を、”手ぶら株式会社”に変えよう」
称賛の嵐だった。
祐介「ものを持たないことで、心が軽くなった。
手が自由になると、行動も変わる。なくすことで得られるものが、あるんです。」
自身に満ち溢れた言動に、社員は感化された。

だが、翌朝。祐介は会社に姿を見せなかった。
部長は首をかしげ、祐介に電話を掛けた。
部長「佐野くん、今日会社来てないけど・・・体調でも崩したのか?」

祐介は、いつもの落ち着いた声でこう言った。
祐介「部長、私はカバンを捨てました。次は“会社に行く”という概念を捨てることにしたんです。」
祐介「手ぶらを極めた先にあったのは、存在の軽やかさでした。
私はもう、物理空間に縛られない働き方を選びます。つまり、出社は不要です。」
「カバンが必要」という固定概念を壊した男は、さらに上を目指した。
