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今竹涙希は、昔から真面目だった。
仕事は丁寧で、頼まれたことは断れず、休日でも同僚からの連絡には即座に返した。
「頑張ってるね」と言われるたび、どこか満たされる気がしていた。

それでも心の奥底では、ずっと疲れていた。
あるとき、ふと気づいた。
努力をしても、報われるわけではない。
人間関係に気を遣っても、感謝されるわけではない。
頑張れば頑張るほど、「義務」だけが増えていく。
疲弊した涙希は、「頑張らない人生」を歩もうと決めた。

朝は適当に出社し、最低限の業務だけこなす。
上司の小言は聞き流し、評価にも期待しない。

同僚との付き合いは断り、家では洗濯物を溜め、食事もインスタントばかり。
誰にも会わず、何も考えず、最低限のルーチンだけで生きる日々。

ある休日。いつものように予定はなく、
ただベッドに寝転び、カーテンの隙間から差す光を眺めていた。
「……これ、最高じゃん」
やるべきことがないことは、今や自由の象徴だった。

涙希は、体の奥から湧き上がる熱に突き動かされる。
「この幸せ……俺だけじゃなく、みんなにも分けてやりたい」

かつてのように働き詰めの人々。
毎日疲れ果てて、笑顔を忘れてしまったようなあの同僚や上司たち。
彼らにも、この“暇という幸福”を届けたい。
――だったら、作ればいい。

人を面倒から解放し、思考の重荷を取り除く装置。
これは、ただの機械じゃない。「人を救う装置」だ。
涙希の瞳は、生き生きと輝いていた。

朝の光が差し込むアパートの一室。
以前の涙希なら、布団の中でだらだらと過ごしていた時間だ。
だが今は違う。彼は机に向かい、夢中で手を動かしていた。
ラズベリーパイと小型モーター、音声認識チップ、家庭用AI……。
大学時代に学んだ情報工学の知識を総動員し、涙希は一人、装置の開発を進めた。

コードを書く。動作テストをする。失敗する。直す。
時間がいくらあっても足りなかった。
「こんなに充実してるの、いつぶりだろうな……」
涙希は設計に没頭した。
そして開発から一年。この間、彼は”忙しかった”。
ついに暇を作る装置『Time make』の完成を迎える。

涙希は静かに装置を見つめた。
一見すると、大きな電子レンジのような箱型の装置だった。
正面には光沢のある操作パネルがあり、色によって用途が変わるボタンがずらりと並んでいる。

試しに「掃除」ボタンを押すと、装置からお掃除ロボットが出てきて、部屋を綺麗にする。

続けて「食事」ボタンを押すと、Time makeの中から湯気を立てた料理が自動的に出てきた。
「和風ハンバーグ定食、バランス重視で調理しました」と画面に表示される。
食べてみると、外食にも引けを取らない味だった。

「洗濯」では中に洗濯物を放り込むだけで、数分後には畳まれた衣類が整然と出てくる。
あらゆる“面倒”が、ボタンひとつで片付く。

「……これは、すごいぞ……!」
この装置さえあれば、誰でも“頑張らずに”生きていける。
もう、無理しなくていい。気を遣わなくていい。何も、しなくていい。
「これで、みんなが救われる」
彼は信じていた。

最初の一週間、彼はずっと笑顔だった。
忙しさから解放され、時間に追われることもない。
心のざわめきも、焦りも、すべて過去のものになった。
だが、二週間を過ぎたあたりから、ある感情が胸に生まれ始める。

――物足りなさ。
やることは、もう何も残っていない。
すべてが、Time makeによって完璧に処理されてしまうからだ。
「……これは、本当に“幸せ”なのか?」
その夜、涙希はふと立ち上がった。

部屋の片隅に置かれたTime makeのパネルに目を向ける。
「……俺、一番楽しかったのって、これを作ってた時じゃなかったか?」

頭を悩ませ、設計に苦しみ、動かないプログラムに苛立ち、
それでも、諦めずに向き合い続けた日々。
「俺が求めていたのは、“楽”じゃなくて、“熱”だったんだ」

そうしてゆっくりと、彼はTime makeの電源を落とした。
「次は、“頑張ること”を楽しむ装置でも作ってみるか……」
彼の人生は再び、動き出した。