【短編小説】チェスに救われた私

短編小説

    

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「今のままじゃ、人生詰むぞ」

ネットには、そんな言葉がいくつも並んでいた。

何の根拠もないのに、心は核心を突かれたような気分になる。

「そうだよね・・・私はこのままじゃダメなんだ」

何か安心材料はないかと、スクロールの繰り返し。
けれど、あったのは一時的な安心感であり、恒久的なものはなかった。

今竹 朝見(いまたけ・あさみ)、36歳。

未婚、契約社員、奨学金の返済中、貯金はゼロに近い。

生活に大きな不満があるわけではないが、”どこか足りない”という感覚にいつも苛まれていた。

画面の向こうには、発信者が思う”正解”が整然と並んでいた。

「35歳までに結婚しないとヤバイ」
「独身の幸福度は、既婚者の半分以下」
「20代は焦りなさい」

それらの言葉が、朝見の心に容赦なく突き刺さる。
自分の歩んできた道が、どんどん”間違い”のように思えてくる。

ある日、仕事帰りに寄った図書館で、一冊の入門書が目に止まった。

『チェスの始め方』

白黒の駒が並ぶ表紙に、なぜか心が引き寄せられた。

その夜、朝見は、チェスゲームをインストールしてみた。

ルールは複雑で、駒の動きすら分からない。

けれど、プレイしていくにつれ、絶妙な感覚が心に広がる。

一手を読む、相手の動きを予測する、次の展開を考える。

チェスにおいての思考の全てが、朝見の脳を埋め尽くした。不安が入る隙がないほどに。

朝見
「えっと、相手がナイトをここに動かしたら、私のビショップが危ない。
 ただ、ビショップを犠牲に、相手のクイーンを取る選択肢もある」

目の前の盤面に広がるのは、「ありとあらゆる可能性」。

そこには、”こうしないと失敗”も、”この手が正解”も存在しなかった。

その時その時の状況で、最善と思える手を選ぶ――ただそれだけ。

ネットにある正解は、いつだって一方通行だった。

「この副業が正解」「これをしないと損する」「何もするな」

どこを見ても、”今のあなたは間違っている”という前提で語られていた。

“取り返しがつかない”という絶望を誘発するものばかりだった。

けれど、チェスは違った。
ミスをしても、そこから戦い方を変え、道を切り開くことが出来る。

朝見
「正解があるんじゃなくて、不正解がないんだ。」

朝見の中に、静かな確信が芽生えた。

人生だって、同じなのかもしれない。一手で勝敗が決まることなんて、滅多にない。
そのときの状況を見て、自分なりに考え、判断し、進む。
そうして繰り返すうちに、気づけば“自分だけの人生が生まれる。

不正解を恐れて何もできなかった過去の自分に、朝見はそっと微笑んだ。

――それから数年後。

朝見はチェスに没頭し続け、ついにチェス世界大会で優勝を果たした。

図書館に行ったあの瞬間から始まった旅は、
いつの間にか彼女を、世界トッププレイヤーの一人にまで押し上げていた。

メディアでは驚きの声を上げた。

“36歳でチェスをはじめ、40代でグランドマスターへ”
“遅咲きの天才”
“固定観念を覆す快挙”

優勝インタビューで、記者が尋ねた。

記者
「あなたが思う人生とは?」

朝見
「私が思う人生は、“不正解なんてない”ということです。
 正解があるのではなく、不正解がない。」

「私がチェスを始めたのは36歳の時でした。
 それまで、チェスの駒の動かし方すら知りませんでした。」

会場がざわつく。何人かの若い観客が目を丸くした。

朝見
 ――”チェスは子供の頃から始めないと勝てない”――

 そんな言葉を、私はネットでたくさん見てきました。
 ですが、その情報は、多くの人の挑戦を無意識に止めてしまっているのではないでしょうか。」

「ネットの情報が間違いだとは思いません。ただ、それがあなたにとっての正解とは限りません。
 本当に必要なのは、“自分自身の判断”です。」

「他人が何を言おうと、自分で考え、自分が思う最善の一手を指していく。
 それこそが、私にとっての人生であり、チェスで学んだ一番大きなことです。」

このインタビューは、瞬く間にネットで拡散され、数多の人々の心に届いた。

誰かは、泣きながらスマホを閉じた。

誰かは、ホコリをかぶっていたピアノに手を置いた。

誰かは、やりたいと思っていた起業プランのノートをもう一度開いた。

「今の自分が、今できることをやる」

その当たり前で、でも難しかった一歩を、誰もがもう一度踏み出していった。

――5年後。

「40代から学び始めたエンジニア」が作った脳トレゲームが世界的ヒットを飛ばし、
「50歳で建築を学び直した女性」が新しい災害対応住宅を設計。
「60代の元サラリーマン」が編み出した省エネシステムが、地方都市の再生に貢献した。

世界は少しずつ変わっていった。
固定観念の檻を壊し、年齢の壁を越え、新しい挑戦が、日常になる。

誰かが、また一手を指す。
それは、過去でも未来でもなく、“今”を生きるための一手。

そして世界は、今も広がり続けている。

END

※この作品はフィクションです。
登場する人物・団体・出来事はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
一部の文章や画像に生成AIを使用しています。